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徳島堰のお勉強・・・ |
| 徳島堰ウォ−キング |
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2003年11月26日(水) 快晴 |
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満々と水を湛え、釜無川右岸を沃野に変えて流れる徳島堰。 日本三大堰の一つとして江戸初期に完成した山梨県が誇る用水路である。 340年後の今日、昭和49年の大改修を経て水稲1600ha、樹園1800haへ用水が送り込まれ、文字通り地域を潤す水として、往時の目的を充分に果たし続けていた。 この奇跡の堰を辿って、先人の遺徳を偲ぼうというのが本日の趣旨である。 快晴無風に恵まれて、大変素晴らしいウォ−キングとなった。 |
| 本日特筆すべきは右の老人。歌田昌収翁である。翁と出会って、このウォ−クは大変意義のあるものとなった。 コ−ス作成中の6月、担当の平井会長がたまたま遭遇したこの翁こそ、徳島堰開削に重要な役割を担った関係者の子孫であった。 御歳93歳にして発声朗々、背筋をピンと伸ばしてよどみ無く語るその内容たるや驚くべき歴史の細部を活写して、聴くものを飽きさせない。 今日一日はウォ−キングというよりも、人気教授のゼミに参加したような、こちらまで背筋の伸びる一日であった。 |
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| 従って、私のウォ−クレポ−トもいつもより固くなるのは致し方ない(~_~;) 歌田翁の語ったことなどを思い出しつつ(メモ取らなかった^_^;) 徳 島堰の謎に迫りたいと思う。文中史実と過ったところがあれば、翁のせいではなく私の記憶違いである。もし明らかなる誤認を見つけられたなら、一報を下され ばありがたき幸せ 。すぐに調査訂正いたします。 | |
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取水口全貌 3枚の写真,連続してるつもりで見てください(~_~;) |
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左は釜無川からの取水口 |
真ん中は調整池の役割 |
右は川に戻しています |
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振り返れば一つの流れが直角に勢い良くほとばしっております。これが徳島堰の始まりです。 毎秒7.96立方米の水流が勾配1000分の1の水路を通って、昔「月夜でも焼ける」と言われたほどの旱魃地帯を潤していくのであります。頼もしい! |
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ではもう一度徳島堰とは何か。何時、誰が作ったのか。 そこからお勉強いたしましょう。 徳島兵左衛門の名前は胸に刻んでおいて下さい。 |
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何はともあれ公園に集合 |
今日は内海さんのストレッチです |
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快晴。真っ青な空をご覧下さい |
すぐに堰沿いの道となります |
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取水口管理事務所では |
歌田翁が待っていて下さいました |
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| 右の恰幅の良い方は「徳島堰土地改良区」という堰利用組合の理事長さん。この方のお話を伺う予定だったが、理事長さんが歌田翁に譲った。往時の関係者の子孫の少ない今日、歌田翁は徳島堰の生き字引にして貴重な語り部である。 翁は開口一番こんなことを言った。 | |
| 「さて、徳島堰は慈善だったか、営利だったか・・」 | |
| 上手い!私は思わず唸った。話の導入としてこんなに人を引きつける文言は無い。元校長先生だとおっしゃるが、93才にして言語明瞭、頭脳明晰。具体的な年号や人名をよどみなく語り、人の興味をそらさぬよう話を進めるその姿勢は、もはや無形文化財である。 | |
| 徳島兵左衛門が堰を作ろうと決意した時、堰周辺の大地主「歌田何某」という神主と証文(契約書)を交わしたのだが、 この歌田翁こそ、その歌田神主の直系の子孫なのである。理事長も翁の前では頷くばかり。いや、大変な人と出合った。 | |
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翁は証文の写しを私達に下さったが、候文につき浅学にして読むこと能はず。その場で朗々と読み下しても頂いたが、なを分からず(~_~;)。 堰開削における用地買収か借地料の相談かなにかだと思われるが、兵左衛門の花押の入った証文の実物は第一級の歴史資料なのではと思われた。 さて、翁の問いの答えだが、堰の開削は「営利」事業だったのである。篤志家だとばかり思っていたが、話は聞いてみるものである。 |
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要所をマイカ−で先回りして説明をして下さった |
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| 当時、江戸の深川で大店を持ち、大阪商人との繋がりを深めることで、巨富を得ていた兵左衛門は、それを元手に堰の開削を思いついたのである。(略)甲府藩 に願い出て許可された兵左衛門はこの時、一、堰が完成したら、その恩恵により開墾された田畑から一反につき一〜二分を水代として徴収してよい、二、新開地 の年貢額の十分の一を受け取ること、という約束を取り付けていた。これにより、兵左衛門は莫大な私財を投じても、それを回収する目途を立てていたのであ る。 | |
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山梨県史編さん室主任 平山優 著 |
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翁の話は続いたが・・ |
左のあきれるほど大きな石碑が目に付いた。 昭和の大改修の時、国営事業として事業経費の半額以上を国から引っ張り出すことに成功した地元出身の代議士金丸信を讃えたものだった。 「徳」良く「衆」を「潤」すという意味らしいのだが、「衆」と「潤」の文字を入れ替えないと意味が不明であると中国人から指摘されたが、そのままにしてあるのだそうだ。まったく厄介な代物である。後世の史家に謎を残す。 |
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| そもそも340年の偉業の前に、代議士の名前を大きく刻んだ石碑、それも意味不明の文字を書き込んだ石碑を置くなどという神経が私には分からない。今日堰 あるのが仮に代議士のお陰だとしても、兵左衛門を讃える碑の方が大きくてしかるべきだと思うのだが、私の見落としか、そのような石碑は周囲に見当たらな かった。この後、歌田翁の説明がコ−スのあちこちで行われるのだが、どうも兵左衛門の痕跡が堰以外にどこにも見当たらないのが気になった・・。 | |
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ま、ともあれ記念撮影をして |
旅を続ける・・ |
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いやほんとにのどかで静かな |
里の晩秋です |
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| 街角に立つ一本の石碑 |
徳島兵左衛門の墓(とされるもの) |
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「徳翁はかみち」と刻まれていた。目立たぬように、ひっそりと立っているそのたたずまいに、徳島兵左衛門のその後の人生が暗示されているような気がした。 右の墓も実は掘ってみたら骨が無く、町のガイドブックには「供養塔」とだけ記されている |
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翁の話は続く |
堰の工事も進んだある時期、兵左衛門は突如として堰の工事から一切手を引き、事業は甲府藩に引き渡された、というのである。 「失意のうちに世を去った」とされているが、手を引いた理由が謎とされている。 事実は、堰開削事業に成功されて水代や年貢を兵左衛門に取られるのが惜しくなった甲府藩に抹殺されたのだ、というのが翁の論である。 |
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| 兵左衛門の後釜として、有野村(旧白根町有野)の武田浪人矢崎又右衛門に命じて工事を続行させ、寛文十一年(1671年)に完成を見るのだが、なんと矢崎 又右衛門も工事の為に私財を投げ打ち、甲府藩が約束を違えて給金や補償をしなかったため、不遇のうちに生涯を閉じているという。 | |
| 「甲府藩は二人の実直な人間の生涯を踏みにじったのである」(平山 優) 藩の仕打ちとあらば、関係者も仕返しを恐れ、墓も石碑も隠すようにして、ひっそりと暮らしていたであろうと思われる。今にいたるまで、徳島翁の偉業はあま り世間に知られていない。日本三大堰の一つだという割には、手元のあらゆる歴史資料、人名辞典等に、徳島翁の名は出てこない。 |
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| 後世、供養塔のある日蓮宗妙浄寺より、戒名として最高位の「院殿」をおくられて遺徳を讃えられた。事跡を記す唯一のものとして、同寺院の梵鐘に「徳島堰」の由来が記されているという。 | |
| 【後日譚】2006年8月7日。筆者の元へ「矢崎又右衛門は私の遠い祖先にあたります」という方からのメールが届いた。それによると、「一族の山田六郎と いう方が20年ほど前に徳島堰と又右衛門ついて小冊子をまとめており、歌田先生に資料を戴いた」とありました。又、その小冊子には「又右衛門はただ残工事 を完遂したわけではなく堰すじ全線をほぼ戦前の姿にまで仕上げた」ということが書かれており、さらに「また又右衛門は文献の中でこの堰を一度も徳島堰とは 呼ばず「新堰」と呼んで」いて、それが「堰に対する意地であったのではないか」としています。 | |
| なるほど、形としては徳島翁の後始末だが、現実にはほぼ全線の堰を仕上た又右衛門としては、これは徳島堰ではなくむしろ矢崎堰であるとの思いが強かったであろうと推察される。 | |
| どちらにしても二人の先人の偉大な功績を少しも記すことの無かった甲府藩の責任は重い。 | |
| ウォ−キングは続く。 | |
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20号線をくぐって・・ |
山道に入る |
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こんな道を抜けると・・ |
不思議なたたずまいの集落に出た |
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村の入り口にこんなものが・・ |
力石といって、およそ100kgあるそうです。昔若者はこれを持ち上げられないと「よべえ」にいけなかったそうですが・・ 「よべえ」が「夜這い」と分かって何故か納得 F女史だけは「よべい」を「夜這い」と言ってもなんのことやら分からないご様子でした(^_^;) 誰かおせえてあげてくり〜 |
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あくまで静かな村里に |
猿が出没している |
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墓のお供えを持っていかれちまって・・ |
と嘆くおじさんの手に持つものは・・ |
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「ちかごらぁ この音でも驚かなくなっちまって」と手にしたモノを地面に向かって発砲させてみせたが、頼りない音とともに砲身から出てきたのはガムの包み紙を丸めて銀玉にしたようなモノ。おもちゃの鉄砲におもちゃの弾だった(~_~;) |
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お寺の境内を借りて弁当にします |
いつもご一緒のお二人 |
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昼食後、希望者にスタンプが押されます |
手帖がもう何冊目に入ったのでしょうか |
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全国の大会を歩いています。 |
さて、のんびりしてはいられない |
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午後も歌田翁が待っていてくれたのです。 |
宇波刀神社の秘宝を特別に |
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見せていただきました(~_~;) |
・・・・・・・・・・・・ |
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この神様は向かって左の手のひらが大きい |
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外からくる邪悪なる者を「待て」と押しとどめているのだそうです。かなり珍しい像です。コチラの方が秘宝だと思うのですが・・(~_~;) ところで、歌田家の地所は現在も広大。 自宅の庭に神社があり、林道も通るという型破りな話に驚かされる。 |
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これが自宅にある神社の鳥居です屋敷神社とでもいうのでしょうか? 左は歌田翁のさらに祖父の事跡を讃えて孫一同が建てた石碑。孫一同というだけあって、昌収さんご本人の名前もちゃんと彫ってありました |
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暗渠(小さな沢を潜っています) |
工事は相当に難航したといいます。堰のル−トはほとんど傾斜面で、掘り上げた土砂を堰の左岸に盛り上げて、決壊しないよう土留めの作業を行いながら進まね
ばならなかったようです。さらに沢川は樋で横断させるなど、難航が続いたが、最も難工事であったのは御勅使川の川下横断と矢口の岩盤であったという。 想像に絶する難工事だ。一体どんな掘削機械を持っていたというのだろう。僅か数米の暗渠を眺めるだけでも偉人の成し遂げたことの大きさに感動がとまらない。 |
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気がつけば富士がでかい |
釜無川が悠々と富士に向かって流れている |
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八ヶ岳を背負って記念撮影 |
そろそろウォ−クも終点が近い。 徳島翁と歌田翁 時代を超えて出会えた二人の翁に圧倒された一日だった。 一瞬だが、二人は同一人物ではなかったかという錯覚に襲われた。係累の無い徳島翁が時として歌田家に生まれ変わって、今日のような振る舞いを行う・・・。伝えたいことが沢山あったに違いない。 |
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| 県下には大小様々な堰が開削されてきた。しかし昭和50年代から始まった圃場整備事業によって、多くの堰が400年近く保っていたその姿を変えた。役割 を終えたものも、近代化されたものもあろう。徳島堰は漏水防止のためにコンクリ−ト化こそされたものの、往時の姿を良く留めている。 | |
| 消えていった大小様々な堰の代表として今後も時代を超えてその役割を果たし続け、未来にその役割を伝え続けて欲しいものだと願う。 | |
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そんなことを考えながら最後のサイクリングロ−ド |
を歩いていると、河川敷に下りて土の道となった |
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| さすが平井さんのコ−ス取りである。最後まで土の道を求めてコ−ス設計をする。今日は二人の翁に気を取られたウォ−クだったが、コ−ス自体の素晴らしさは当然言うに及ばない。八ヶ岳歩こう会は又一つ珠玉のウォ−クコ−スを得たのだ った。 | |
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下記の文献資料から文章を引用させて頂きました。ありがとうございました |
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| ●山梨の歴史景観 山梨郷土研究会編 山梨日日新聞社 | |
| ●山梨県の歴史散歩 新全国歴史散歩シリ−ズ 山川出版社 | |
| ●街道の日本史23 甲斐と甲州道中 飯田文弥 吉川弘文館 | |
| ●ブリ−ズ 歴史めぐり 遺徳を偲ぶ徳島堰 山梨県史編さん室主任 平山 優 | |
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完 |